南紀白浜温泉(なんきしらはまおんせん)、もしくは白浜温泉(しらはまおんせん)は和歌山県西牟婁郡白浜町にある温泉

南紀白浜温泉(なんきしらはまおんせん)、もしくは白浜温泉(しらはまおんせん)は和歌山県西牟婁郡白浜町にある温泉である。かつては熱海温泉別府温泉と並んで「日本三大温泉」と言われていた。温泉として非常に歴史が古く、日本三古湯のひとつに数えられ、古い文献では牟婁の湯と呼ばれていた。広義での白浜は温泉郷であり、さらに湯崎、大浦、古賀浦、綱不知、白浜、更に近年は東白浜、新白浜を加え7ヶ所の温泉地に細分できる。白良浜を中心に海岸沿いに温泉施設、宿泊施設が広がっており、周辺には多くの観光地もあるリゾートとなっている。紀勢自動車道南紀白浜インターチェンジ南紀白浜空港もあり遠方からの交通の便もよい。

歴史

日本書紀に、当時の歴代天皇が訪れたことが記載されている日本屈指の古湯である。

それ以後、貴族(江戸時代紀州藩主)から庶民まで、たくさんの人が白浜温泉を楽しんでいる。江戸末期には『紀伊続風土記』によれば、「村中六十余戸、皆浴客の旅舎となり、飲食玩好歌舞の類に至るまで都会の地に羞じざる…」と記されるほどの殷賑振りを見せた。

もっとも、1940年昭和15年)の白浜町制施行前の当地域は瀬戸鉛山村(せとかなやまむら)といい、牟婁の湯として古くより名を馳せていたのは鉛山地区(湯崎地区)にある温泉であった。

今日に見る大規模な温泉街が作られたのは第一次世界大戦後の1919年(大正8年)、鉛山地区に対抗して独自の温泉場を作る試みが地元有志の手で始められ、3年後の1922年(大正11年)に瀬戸と鉛山のほぼ中間の白良浜付近にて源泉を掘り当てることに成功して以降で、このころに「白浜」という温泉名が作られた。このとき、白浜の名の根拠となったのは、鉛山湾に面した白良浜である。白良浜はケイ酸含有率90パーセント以上の石英砂からなり、ガラスの原料として移出されていたこともあった。白良浜の白い砂は古くから知られており、歌枕として使われたり、白いことの形容として使われたこともした。

この後、白浜の名は、当時の商船会社が「白浜温泉」の名で温泉の宣伝に努めたことや、温泉開発にあたった会社が1923年(大正12年)にあらためて白浜温泉自動車株式会社を名乗ったことに加えて、1929年昭和4年)の昭和天皇の白浜行幸によって全国に報じられたことで、定着がすすんでいった。このように観光開発が主導して作られ、広められた名であったために、白浜を駅名や町名として採るにあたっては、旧来の鉛山地区との対立から、大きく難航した。

また、「南紀白浜(温泉)」という呼び名もこうした観光上の要請から使われ始め、定着したものである。「南紀」とは本来は紀伊国廃藩置県後の和歌山県全域と三重県の一部)を指す地域区分である。南紀地域内での地域区分としてさらに紀南があり、白浜は紀南に含まれる。地理学者の山口恵一郎は、「南紀」が広く流通し始めたのは、戦後の観光ブームに即したものであるとしており、これがさらに昭和40年代頃には南紀と紀南が互換的に使用されるようになっていった。

戦後まもなくは、和歌山県南部が新婚旅行スポットとなったことで注目を浴び、また京阪神の奥座敷として団体観光客向けの歓楽温泉として発展する。その当時は「ヌードスタジオ」というストリップ劇場が数件あったが1960年代初頭に姿を消し、白浜にはピンク関係の店舗などは現存していない。その後1975年(昭和50年)頃から南紀白浜アドベンチャーワールド白浜エネルギーランドの開園に伴い、家族向けのレジャー温泉地へと変化を遂げている。

泉質

  • 食塩泉・炭酸泉・重曹泉

効能

胃腸病・神経痛・リウマチなど

※ 効能は万人に効果を保証するものではない。

温泉街

白良浜沿いの南部には大規模なホテルが林立しているが、温泉街には民宿や旅館などもある。ほとんどの宿泊施設は浴室に温泉を引いているが、温泉施設のみの共同浴場や料亭・オートキャンプ場の中に温泉を併設したとした施設も見られる。大きなホテルや旅館では有料で温泉のみの利用もできる。温泉街にある温泉神社では、6月に献湯祭が行われる。その際、一部共同浴場に無料で入浴することができる。

アクセス

外部リンク南紀白浜温泉
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